乙女が評する『借りぐらしのアリエッティ』

最初に惹かれたのは音楽。原作は英国児童文学。蔦に浮かぶ雫や陰影。

期待をこめて赴いた劇場で出会ったのは、小鳥がさえずる、荒れ果てた夏の庭だった。上品な老婦人の車に乗って、もの憂げな少年が現れる。きらきらしたハープの最初の一音を聴いたとき、私はすでに確信していた。『借りぐらしのアリエッティ』、なんて愛すべき物語!

私のまわりにはそんな仲間たちが大勢いて、この映画はすこぶる評判がいい。ジブリという巨大な看板の陰で見えづらいけれど、じつは『アリエッティ』には、一部の人の心をがっしりつかんで離さない秘密があるのだと思う。その人々の名は「乙女」。性別も年齢も限定しない。心に「乙女」を持っているかどうかで、『アリエッティ』の印象は大きく変化する。

「乙女ジブリ」の系譜

「乙女」という言葉を、私は私は最大級の賛辞だと考えている。第一に乙女は「女子」とか「森ガール」なんかよりはるかに勇ましく、知的で、洗練されている。第二に乙女は、本や映画や音楽が好物である。好物だが、それを知識量や、浅はかなペシミズムでひけらかそうとはしない。第三に乙女は、現実にも毅然と立ち向かう。だから大人へも老人にもシフト可能なのだ。

だいたいにおいてジブリのヒロインは乙女である。とくに『魔女の宅急便』『耳をすませば』『ハウルの動く城』の3作品を、私は「3大乙女ジブリ」と呼んでいる。ポイントは、①原作が児童文学あるいは少女マンガ、②リアルなヒロインの成長もの、③暮らし描写へのこだわり。この路線がどこから生まれたのか? 答えは簡単。乙女の夢、世界名作劇場である。

とりわけ「暮らし萌え」(③)の由来は探りやすいだろう。高畑勲と宮崎駿が名作劇場『アルプスの少女ハイジ』や『赤毛のアン』を手がけていたのは有名な話だが、キャラクターの線や動き、自然へのメッセージ云々を知るより前に、私は昔からそれらの作品が持つ「外国の香り」が大好きだった。高畑や宮崎の世界には、風習やインテリア、耳慣れない食べ物や翻訳ものならではのわざとらしい言葉づかいへのフェティシズムに満ちている。

パクさん(高畑)と僕は民族的なもの、土俗的なものに対する興味が不思議に共通していた。『アルプスの少女ハイジ』をやるときも、(中略)スイスの農民というのはどういうものかを朴さんは徹底的に勉強するわけですね。(「BRUTUS」2010年8月1日号、マガジンハウス)

乙女たちもまた、物語の中に生活を求め、生活の中に物語を求める。

そしてそれは、お仕着せの「女子ども向け」であってはならない。お辞儀ひとつ、壁紙一枚にもリアルを追求するジブリの巨匠たちの姿勢は、そうした乙女心を直撃する。

たとえば『アリエッティ』の洋館やドールハウスの描写は、英国のヴィクトリア様式を参照した日本の乙女文化の結晶と言える。ある意味『アリス・イン・ワンダーランド』よりも正しいヴィクトリアン萌えを、私は『アリエッティ』に感じた。劇中でドールハウスの思い出を語るおばさまの古きよき乙女しぐさは、共感してあまりある。

もうひとつ秘密があるとすれば、それは監督・米林宏昌のリリシズムである。愛読書が「りぼん」と語る米林は、確実に「心に乙女を持っている人」であり、柊あおいの原作をもとに『耳をすませば』を遺した故・近藤喜文の正当な後継者である。これが乙女に響かないわけはないのだ。

米林もまた、近藤の(おそらく宮崎以上に)繊細な心理描写に感銘を受けたひとりだったという。創作の歓びのひとつは、既存の創作物への恩返しだ。こういう物語が、描写が、音楽が好きだったからと、新たな創作が生まれる。その受け手が秘密を探り当て、ルーツへの旅を楽しんでくれたなら--こうした「芸術の捧げもの」感が、ジブリというスタジオを支える厚みなのだろう。

ケルト音楽。ひなげしの花。角砂糖。シソジュースにミントティ。葡萄酒。猫。本を読む少年と、少女のひと夏。孤独と連帯。せつない別れ。「君はぼくの心臓の一部だ」。

この圧倒的乙女濃度をどう伝えようかと考えあぐねていたら、終盤、翔の読んでいる本の題名が見えた。『秘密の花園』。そっと用意された答え合わせのようで、涙が出た。

(サイゾー、2010年10月号 初出)

 

[関連記事]

17才、少年、だからこその

Scroll to top